Writingsコラム

三重県、全国唯一の忍者学

漫画やドラマなどで、抜群の運動神経を発揮したり、手裏剣を飛ばして戦う忍者の姿に憧れた人は案外多いかもしれません。三重には忍者をテーマにした観光名所が複数あり、忍者体験ができる施設もあります。また、三重大学では日本で唯一、忍者学を専門に学ぶことができるとか。三重と忍者はどういう関係にあるのか、紐解いていきましょう。

まず、忍者にはいろいろな流派があることをご存知でしょうか。相模国の風魔(ふうま)、甲斐国の透波(すっぱ)や乱破(らっぱ)、上杉氏が使ったとされる軒猿(のきざる)、三重県南部の紀伊国では雑賀衆(さいかしゅう)などが挙げられますが、その中でも有名なのは三重県伊賀地方の伊賀忍者と滋賀県甲賀地方の甲賀忍者です。

忍者は「忍び」と呼ばれ、主君のための情報収集が最も重要な仕事でした。伊賀忍者は服部半蔵を輩出した服部家の他、百地家、藤林家が「上忍三家」と呼ばれ、大きな発言権を持っていました。実は山岳地帯である伊賀は、大名の力が弱かったため、民主的な自治を行っていた地域でした。また京都との距離はさほど離れていなかったため、政治や情勢に詳しい人材が流れてくる地域でもありました。そういう理由で伊賀は、生き延びるために不可欠な「忍び」の能力を磨いてきたと考えられています。さらに伊賀忍者は、火術や呪術を得意とすると言われており、実戦にも強かったようです。天下統一を図った織田軍を、一度ではあるものの敗退させた実力があったのです。

織田信長が本能寺の変で亡くなった後、大阪・堺にいた徳川家康は自分の命が危ないと察し、岡崎の領地に戻ろうとしました。が、東海道を使うとすぐに見つかってしまうため、伊賀・甲賀地域を通ろうとしました。しかし街道沿いと違って、山岳地帯は落武者狩りや盗賊などが多発する危険に満ちたエリア。その際、家康を護衛したのが伊賀の名家の一つ服部家の半蔵です。これを恩義に感じた家康は服部半蔵と伊賀者200人を召し上げました。

服部半蔵は有事の際の守りの要として江戸城の西門前に屋敷を構えていました。その名残が半蔵門。伊賀者は江戸城大奥のお屋敷番も命じられ、そのトップに立つ服部半蔵の名は幕末まで継承され続けました。ですが、戦さのなかった江戸時代。その職は閑職で、自分たちが忍者の末裔であることを自覚していた伊賀者は、役替えを望んでいたこともあったとか。戦さの最前線で戦っていた忍者として誇りを持っていた彼らの「やりがい」を求める思いが古文書に残っているそうです。

伊賀者と同じく、甲賀者も江戸幕府と諸大名に重用されていました。甲賀流忍者は起源が地侍であったことから、雇い主を特定の人物に絞っていました。人の交流が活発な地域であったことから、情報収集能力は抜群だったとか。また甲賀は薬草使いを得意とし、毒殺などにも関わっていたらしいと伝えられています。

現在、三重大学には国際忍者研究センターがあり、世界中に忍者情報を発信しています。学部をまたいでの「忍者・忍術学」の講義が行われていますが、教室に入りきれないほどの学生を集める人気講義のため、抽選制だとか。大学院では博士号も取得できるなど、日本で唯一の忍者学の砦として存在感を放っています。

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