Writingsコラム

城の象徴・天守の物語

お城見物に行った際は、城の最も高い位置にあるところに登らずにはいられないものです。そこには、地道に階段を上っていかなければならない場合がほとんどですが、たまにエレベーターで一気に行くことができる城もあります。私たちは城の最上階が天守閣だと思っていますが、そもそもなぜ天守閣? そこに住んでいたの? など、知っているようで知らない天守閣。その成り立ちと経緯に少し触れてみましょう。

実は天守閣ではなく、本来ならば「天守」と言います。天守閣は、江戸時代に生まれた言葉で、庶民にわかりやすいように高級建築の意味である「閣」が付け加えられたのです。天守と名付けたのは織田信長。今はもう城跡しか残っていない安土城に建設されたのが最初の天守です。5層7階(現代で言えば地上6階地下1階)、煌びやかに装飾され、最上階の6階には狩野永徳の金碧障壁画が飾られていたと伝わっています。ここで気づいたと思いますが、天守とは城郭の中で一番高い建物のことなのです。安土城は天守、本丸、二の丸、三の丸とある壮大な城郭でした。信長は天守に住み、城下の者たちは圧倒的な力の象徴として天守を仰ぎ見たといいます。

天守というわかりやすい力の見せ方が、後の権力者にも引き継がれます。豊臣秀吉は大阪城に、徳川家康も名古屋城に豪華な天守を作りました。他の武将たちも競って天守を作ったものですが、徳川幕府の「一国一城令」により、ほとんどの城が取り壊されました。さらに明治になると「廃城令」が出され、軍事施設として不要な城は「廃城」となりました。この「廃城」を管轄したのが大蔵省。城を取り潰して学校を建築したり、財源として売られたりした中で、戦争を超えて今に残る現存天守は松江城や姫路城など12城しかありません。

徳川幕府の居城である江戸城の天守は、本丸の北側にありましたが、今残っているのは石組の土台だけ。かつて家康、秀忠、家光と、それぞれの代に建築し直され、幕府の権威を示しましたが、三代目の天守は火事で焼けてしまいます。これを建て直そうとしたのですが、時はすでに太平の世の中。天守は無用な軍事施設ということで、土台部分だけの普請で終わってしまいます。今、皇居内に残る天守台は、幻となった四代目の名残りです。

実は天守に住んだのは織田信長だけで、実際に住む場所ではなかったようです。戦に備えて籠城品などが備えられていましたが、戦がない徳川幕府時代から、徐々に天守は「物置き」的な存在になっていきます。泉鏡花「天守物語」では、人は住まず、妖怪が住まう場所として描かれているほど。物語の舞台である姫路城天守は、今や日本初の世界文化遺産。訪れる観光客も多く、かつて鏡花が空想した妖怪の姿を思い浮かべるのは難しいかもしれません。

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