Writingsコラム

全てが大規模!フランス・ベルサイユ宮殿

2024年7月から始まるパリ・オリンピックのマラソンでは、パリ中心部の市庁舎前からスタートし、ベルサイユ宮殿まで行き、またパリ市内に帰ってくるというコースを走ります。パリからベルサイユ宮殿まで、片道約20キロ。東京から川崎まで約18キロですから、城にしては少々遠い場所にあるような印象も受けます。日本の城の感覚からは程遠い距離にあるベルサイユ宮殿に関して、概略をご紹介します。

ベルサイユ宮殿は、フランス王ルイ14世(1638〜1715)によって建てられました。この敷地には父親であるルイ13世(1601〜1643)の狩猟の館がありました。が、ルイ14世は内乱の経験から、ただの城ではなく、絶対的権力の象徴としての「場所」を作ろうとしました。敷地は、フランス革命以前は8,000ヘクタールもあり、これは現在のパリ市の面積とほぼ同じ。現在は庭園を含めて1,070ヘクタールで、東京ドーム175個分という広大なものです。着工したのは1661年で、50年後の1710年に王室礼拝堂が建て終わって完成。ルイ15世が手を加えて現在の姿となりました。

ルイ14世は、王が全ての権力を掌握するという、絶対王政を敷いた人物です。王が宮殿にいるならば、政治を行う官僚たちも同じ場所にいなければならず、ベルサイユ宮殿には役所としての機能もあり、多い時は役人が1万人も住んでいたそうです。

ベルサイユ宮殿は、王の住まいというだけではなく、王族や貴族、付き従う使用人、王から寵愛を受けた者、王から特権を与えられた者ら3,000人ほどが暮らす空間でした。ベルサイユで暮らすことは大変な名誉であったため、王の寵愛を得ようと5,000〜1万人の人が宮殿を訪れ、非常に賑わっていたそうです。敷地は庶民にも解放されていて、「王の宮殿の楽しみ方」というガイドブックもあったとか。

72mも続く鏡のギャラリー、謁見室であった鏡の間、パイプオルガンが設置された王室礼拝堂、多数のコレクションが飾られていた豊穣の間、ルイ14世を讃える神話世界が描かれたヴィーナスの間など、どこをとっても巨大な権力を感じさせ、畏怖心を覚えさせるほどの豪奢極まりない宮殿ですが、下水設備はなく、常に悪臭に悩まされていたそうです。そのおかげで香水文化が発達したというのは皮肉な話です。

庭園には宮殿以上に力を入れており、噴水をメインとした構成になっています。しかしベルサイユ近くには水源がなかったので、10キロ離れたセーヌ川から水を引き込むため、グラン・カナル(大運河)が敷設されました。が、そもそもセーヌ川の水質は悪く、水からの悪臭にも悩まされていたようです。

ルイ14世とルイ15世が行った宮殿建築費とスペインとの戦争などで財政は悪化しました。次のルイ16世(1754〜1793)は、自身の図書館改装とエントランス棟の建築程度しか行わなかったものの、王妃マリー・アントワネットはプティ・トリアノンと周囲の庭園を譲り受け、田園風景が広がるル・アモー(王妃の村里)として改装し、ここに多額の建設費を注ぎ込みました。こうした浪費が庶民の反発を買い、1789年のフランス革命が起きたのは、ご承知のとおりです。

奇しくもパリ・オリンピックのマラソンのゴールは、フランス革命の発端となったバスティーユ監獄襲撃のために市民が集結した場所、アンヴァリットです。ここは退役軍人の療養院であり、武器庫もありました。市民たちはここで武器を調達してバスティーユに向かったのです。

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