Writingsコラム
山口県、長州と岩国の関係性

山口県は、明治維新の影響で長州藩というイメージが強いものですが、広島寄りには錦帯橋で有名な岩国藩がありました。岩国の藩祖・吉川広家と、長州の藩祖・毛利輝元は従兄弟同士であるものの、関ヶ原の戦いから関係性が変化し、幕末まで微妙な距離感だったようです。両藩の距離感が生まれた背景を探っていきましょう。
戦国時代、中国地方最大勢力だった毛利氏。「三本の矢の教え」で有名な毛利元就の時代、次男が吉川氏、三男が小早川氏へ養子に入り、強い土地基盤を持つ吉川、小早川両氏が毛利氏の配下に入りました。
長男の隆元は毛利の家督を継ぎましたが、41歳で6歳の息子・輝元を残して病死します。死因に関しては毒殺という不穏な説も。輝元は祖父・元就を後見とし、成人した後は豊臣秀吉の傘下に下り、五大老の一人として地位を確立します。しかし秀吉の死後、徳川家康と対立し、関ヶ原の戦いでは西軍に味方し、立場が危うくなりました。これを救ったのが従兄弟であり吉川元春の三男・広家でした。ちなみに小早川秀秋も西軍についていましたが、土壇場で寝返り、東軍の勝利に貢献しました。
吉川広家は三男であったものの、兄・元長と彼の嫡男が早逝していたため、吉川家の当主となっていました。関ヶ原以後、徳川家相手に毛利輝元の処遇に関して精力的に交渉したものの、減封は免れず、毛利家は本州の西端である長州藩へと改易となります。幕府と関係性が強かった吉川広家は岩国の領主として任じられますが、毛利側の家臣は広家を裏切り者扱いし、憎悪を募らせたとか。対して吉川家側は、毛利家が取り潰しを免れたのは広家のおかげ、と反発します。吉川家が支配を許された岩国の徳川幕府の中での立ち位置は微妙なもので、幕府側は外様大名格として認めていましたが、毛利家側は家臣格であると主張。毛利の反対で、吉川家の当主は将軍に拝謁することを許されませんでした。
そんな状況の中、岩国の2代目領主・広正は領内の錦川の干拓事業に着手し、米の生産力は上昇していきます。3代目の広嘉(ひろよし)は暴れ川と言われていた錦(にしき)川に耐久性に優れたアーチ状の橋、錦帯橋(きんたいきょう)を建築させました。川を挟んでいた岩国城と城下町をつなぐ役割を276年間担い、補修を繰り返しながら1950年に大風で流失するまで長くその姿を留めました。1953年に再築され、現在に至るまで5つのアーチが美しい錦帯橋は山口県の観光名所の一つとなっています。
初代岩国領主・広家は毛利家の臣下としての立場を大事にした人物でしたが、時が流れ、豊かになってくると、岩国は藩として独立したいという思いが高まってきます。5〜7代目領主あたりから幕府に藩として認めてもらおうと、工作費を使ったりしていました。が、凶作によって財政は悪化。以降、9代目、10代目と領主の財政運営は上がり下がりを繰り返し、幕末へ至ります。
幕末、12代目岩国領主・幹礼(つねひろ)は、幕府に逆らっている長州藩を武力鎮圧しようとする長州征伐に際し、行軍の延期交渉をしたり、毛利家の味方として戦ったりと奮闘しました。そうした功績も認められ、新政府となった1868年、岩国は正式な藩として認められました。1871年の7月の廃藩置県によって岩国藩は岩国県となり、11月には山口県へ編入されます。吉川家は1884年の華族令で子爵に、毛利家は公爵に任じられました。
一見、丸く収まった長州と岩国の関係ですが、今でも岩国の人々は長州と一括りにされることを嫌うようです。明治維新から150年にあたる2018年に山口県で行われた一連の記念行事も、岩国ではあまり盛り上がらなかったという噂もあったり。どうやら両地域の住民心理は、まだまだ複雑な様子です。