Writingsコラム

明治時代のご令嬢

卒業式のシーズンですが、女性には華やかな着物に合わせて、袴とブーツを組み合わせるスタイルが人気です。昔は大学生がメインでしたが、今では小学生の姿も見かけます。こうした「ハイカラさん」スタイルの源流は、明治初期の女学生から。今とはかなり違う価値観の中で生きていた、明治時代の上流階級のご令嬢とは、どういった人々だったのでしょうか。

江戸から明治に変わり、大名や公家たちは華族という身分になりました。江戸時代は、こうした身分の女性たちは、それぞれの家ごとに雇われた師匠に教育されていました。時代が変わり、女性にもより高い教育をという機運が起こって、1885(明治18)年に四谷に宮内庁直轄である華族女学校が設立されます。伊藤博文の肝入りプロジェクトで、準備委員として当時の女性教養人の代表格である下田歌子と大山捨松が起用されています。華族女学校は麹町に移転した1889年から華族以外も受け入れ、1906(明治39)に学習院女学部となりました。

華族女学校は小学科と中学科があり、教える科目は国語(和文学)や外国語(欧語学)の他、裁縫や習字など。華族のご令嬢は習字や和歌、琴を幼い頃から師匠について習っていますから、こうした科目は皆、好成績を誇ったとか。英語の教師は5,000円札に肖像写真が使われている津田梅子。外国語は会話を重視した授業であったようです。下田歌子は動きやすさを重視し、和装に袴とブーツを組み合わせるスタイルを推奨しました。

当時のご令嬢は、女学校在学中に結婚し、退学することも当たり前。勉学はともかく「いい結婚をする」ことが第一に求められ、25歳くらいになると「老嬢(オールドミス)」などと呼ばれていました。数え年なので、実質24歳で「老嬢」扱いされたのです。そうした理由から、華族女学校の授業参観は結婚相手を見定める場で、参加人の服装は規定があり、男性はフロックコートか羽織袴。メモを取ることは許されず、一つの教室に4人以上入室することは禁止されていました。

1905(明治38)年に国木田独歩が創刊した雑誌「婦人画報」には、華族のお嬢様の写真がずらりと掲載されています。華族女学校の卒業生をはじめ、跡見、実践、東京女学館など都内有名女学校の卒業生が、ドレスなど美しい装束をまとい、豪華な屋敷や庭園で撮影された姿は庶民の憧れの的となっていました。一方で、こうした写真は上流階級の人々が結婚相手を見定める意味合いもありました。当然ながら美貌に自信のある娘を売り込むため、写真を編集部に送る親も多くいたようです。

しかし自分から進んで雑誌や美人コンテストに応募することは、当時の社会規範として許されないことでした。1907(明治40)年、アメリカのシカゴ・トリビューン社が主催した世界の美女コンテストの日本部門で、学習院中等部3年の福岡県小倉市長の娘が1位を獲得。これを非難する論調が新聞に載り、学長である乃木希典は怒り、彼女は退学処分となってしまったのです。この件は彼女自身が応募したものではなく、写真館を営む義理の兄が送付したのだと言われていますが、真偽は置き去りにされ、世論の反発は現代でいうところの大炎上ぶりであったようです。

今と違い、女性の貞節が尊ばれ、活躍を阻まれた難しい世の中を生きた当時のご令嬢たち。残っている数々の写真は、美しいけれども皆、どこか悲しげなのは気のせいでしょうか。

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