Writingsコラム

徳島県を流れる暴れ川、吉野川

気候変動によって豪雨が増え、河川の増水に関しての注意喚起基準が変わりました。日本には三大暴れ川と言われる三兄弟がいます。「坂東太郎」と呼ばれる関東の利根川に、「筑紫二郎」である九州の筑紫川。徳島県を中心に流れる吉野川は「四国三郎」。その名にふさわしく(?)、昔から氾濫を繰り返す吉野川は、農業や生活に多大な影響を及ぼしましたが、意外な出来事も引き起こしています。

徳島県あたりの古名である阿波国は、もともと粟の産地であることから「粟国」が本来の名前でした。律令制になり、国府が置かれるようになると、阿波が使われ、朝廷の祭祀を担う忌部氏(いんべうじ)が支配していました。室町時代には、勢力を誇っていた細川氏の傘下にあった三好氏の拠点となります。長く続いた戦国時代の終盤には、羽柴(豊臣)秀吉の家臣・蜂須賀小六(はちすか ころく)の息子である家正が、淡路島と共に阿波国を貰い受け、以降、蜂須賀家が徳島藩の藩主として支配することになります。

吉野川の洪水の一番古い記録は886年。下流の阿波市岩津の南側で、吉野川の川筋が大きく変わるほどの大洪水だったとか。210年後の1098年にも大洪水が起き、「平安時代の2大洪水」とされています。以降、戦乱の世が続いたため、はっきりした記録はありませんが、毎年のように洪水が起きたのは確かなようです。蜂須賀家支配後に書かれた「蜂須賀家記」によると、1722年は6、7、8月と毎月吉野川が溢れ、大洪水が起きたと書かれています。江戸時代にも変わらず大雨が降るたびに洪水が起こりますが、徳島藩は財政難や技術不足などから大規模な治水工事を行うことができず、先の領主・三好氏時代からの「洪水との共生」の道を選び続けます。

吉野川が氾濫するたび、上流から肥沃な土壌が流れ込んできます。豊富な水量を誇る吉野川の水運や水資源を使えるという利点はあったものの、代償として常に水害に遭い続けていました。そこで支配者である三好氏は、夏の台風が来る前に収穫できる染料植物の藍(あい)を植え、生産を増やし、「阿波藍」を確立しました。さらに蜂須賀氏は、藍の葉を乾燥・熟成させた「蒅(すくも)」を固めて運搬しやすい「藍玉」を作り、阿波藍は全国1位のシェアを勝ち取りました。流通を担った商人たちは阿波藍商人と呼ばれ、吉野川沿いに大きな屋敷が立ち並ぶようになります。

が、豊かになる商人が増えたものの、相変わらず洪水の被害は起こり続け、農村は疲弊していきます。そんな苦しい日々を送る人々の心を潤したのが盆踊りです。江戸時代初期から、春日神社の神事「風流踊り」にルーツを持つ盆踊りは、年に一度の祭りとして人々の活力の元となりました。その際、人々の消費活動が高まるため、商人たちは「阿波の盆踊り」を盛り上げました。一方、徳島藩は華美になることを制し続けていました。人々の数少ない娯楽であった阿波踊りですが、祭りの熱狂が、飢饉の米不足と連動し、反体制運動の色を帯びることもあったためです。

明治になってから、治水事業は西洋技術の導入で前進していきましたが、盆踊りは政権によって何度か中止されています。徳島藩時代と同じように、民衆が集い、熱狂することを制御できないと明治政府も考えたのでしょう。しかし日本画家・林鼓浪(はやし ころう)が「阿波の盆踊り」を「阿波踊り」として全国に広め、他の土地で踊られても「阿波踊り」と呼ばれるようになりました。

ちなみに阿波藍は、明治以降、安い化学染料の輸入によって衰退し、戦後はほぼ絶滅状態となります。しかし現在は日本の伝統色「ジャパン・ブルー」として、深みのある藍色が見直され、人々を魅了しています。

吉野川にもダムができ、農業用水としての利用や洪水を制する力は高まりましたが、地理的に台風の影響を受けやすく、下流が低地のため、洪水のリスクは高いままです。しかしながら大規模な被害は、他の地域に比べて格段多いわけではありません。もしかしたら大災害に至らないのは、昔から洪水に悩まされていたゆえに、他の地域よりも防災意識と危険察知能力が育まれているのかもしれません。

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