Writingsコラム

奥深き日本の暦

最近、有名人などが入籍発表をするとき、一粒万倍日と呼ばれる日に行われることが増えています。これは暦注に書かれた吉凶の一つで、一粒のモミが万倍もの実りをもたらすという縁起のいい日になるので、慶事の発表に選ばれています。

暦注とは、暦に書かれていた注釈のことです。大安や仏滅などの六曜、北斗七星の動きから吉凶を決めている十二直、月の軌道を元に天空を28分割してそれぞれ星の名を名付けた二十八宿など、江戸時代まで使っていた太陰暦の暦には、こういった占術に基づいた縁起のいい日、悪い日が詳細に記されていました。

暦は中国から朝鮮半島を通じて日本に伝わってきました。初めて日本で暦が作られたのは推古12(604)年。暦の作成は高度な天文学の知識が必要なため、朝廷主導で行われました。大化の改新(645)から陰陽寮がその任務を担うことになり、江戸時代の終わりまで陰陽寮の関与は続くことになります。使われていたのは月の満ち欠けを元にした太陰暦。どうしてもずれが生じるので、何度も改暦が行われてきました。

明治政府は西洋の制度を取り入れて改革を目指していたために、太陽暦を採用します。この発表がなされたのは明治5(1872)年11月。明治6 (1873) 年1月1日から切り替わると決めたのですが、本来ならばこの日は明治5年12月3日。実施までの期間が短い上、ほぼ1か月、日付を飛び越えることになったため、相当な混乱が起きたそうです。

太陽暦のカレンダーは誰でも作成することができますが、暦は長い間、国家が作るもので、国家機関や貴族だけのものでした。初期の暦は漢語で書かれており、印刷は京都で行われていました。しかし、かな文字で書かれた読みやすい暦が一般の人々まで普及してくると、京都だけでは膨大な需要に応えられなくなりました。そこで、各地の気候や風習などに合わせた暦注が書かれた地方暦が発行されるようになりました。三島、南都、丹生などが最も古いもので、伊勢、江戸など、特色ある地方暦が発行され、多彩な暦注が記載されていましたが、渋川春海が主導した貞享の改暦(1685)以降、暦注は全国で統一されるようになりました。

平安貴族は暦の吉凶に従った生活を送り、凶の方角へ赴かざるを得ない場合は、一旦、方角を変更してから目的地へ向かう、方違えを行っていたことはよく知られています。暦の普及によって、庶民の間にも方角や日取りの吉凶で行動を決める風習が広がりました。明治政府は、こうした因習に従うことは西洋化を阻むとして、太陽暦の採用を機に禁止を通達しました。が、六曜はしっかりと生き延びて葬儀や婚礼などに影響を与えています。一粒万倍日も近年、復活してきたことですし、暦注に基づく習慣というのは日本人の精神に深く根付いているのかもしれません。

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