Writingsコラム
大阪万博の遺産

2025年4月13日、大阪・関西万博が開催しました。1970年の万博以来の大阪開催ですが、前回の万博から引き継いでいるものがあるのを、ご存知でしょうか。
大阪の吹田市千里丘陵で行われた1970年万博の跡地は、現在、万博記念公園となり、一部は大阪大学の吹田キャンパスとなっています。万博跡地に千里ニュータウンという大規模団地が作られたと思っている人もいますが、それは誤解です。万博前の1965年にはニュータウンの集居が進んでいました。万博は国によって計画が進められましたが、千里ニュータウンは大阪府主導です。
けれども万博会場とニュータウンは隣接しており、御堂筋線や中央環状線、北大阪急行といった交通インフラの行き先が千里ニュータウンだったため、両者はセットとして捉えられていたようです。事実、万博チケットには「会場=大阪千里丘陵」と印刷されていました。ここから誤解が生じたようです。とはいえ、千里ニュータウンから万博会場は望むことができ、団地も万博同様に未来を感じさせる場所でした。
万博記念公園の方は、通称「万博の森」と呼ばれています。1970年の万博は一帯に広がる丘陵地を切り開いて会場とし、跡地に利用は開幕時に決まってはいませんでした。大阪市中心部から15キロという立地の良さから、官公庁や流通施設を誘致しようなどの案が出ていました。しかし閉幕から3ヶ月後、国の諮問機関は、この地を「緑に包まれた文化公園」と一括利用すべきだと結論づけました。公害が多発し、負の側面が懸念されていたという時勢でした。
万博の森に携わったのは、文化人類学者・梅棹忠夫氏の教え子で、当時33歳だった造園家・吉村元男さん。多様な生物が生息する天然の森を人の手で作り、都市に住む人々の憩いの場とすることを目標とし、師である梅棹氏からは「30年で森を作れ」というミッションが課せられていました。
森を作り上げるには100年かかると言われていますが、梅棹氏は建造物を作らせないために急がせたと言います。同じように、万博のシンボルである高さ70mの「太陽の塔」も岡本太郎が抱いた進歩主義への懐疑を秘めています。塔の内部には高さ41mの「生命の樹」があり、単細胞生物からクロマニョン人までの「いのちの歴史」が描かれています。
2025年開催の夢洲(ゆめしま)での万博では、周囲を囲む木製のリングの中央に、万博の森から移植された1,500本余りのクヌギやコナラが「静けさの森」としてたたずんでいます。木陰が増えるように計算された植樹で、夏の熱中症対策として利用されることが期待されています。現在、万博の森では背の低い木が育ちにくい環境にあるため、そこから間引かれた木々が夢洲に植えられたという経緯があります。
今回の大阪万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」。万博の森のように、次世代によき遺産がつながっていくことを祈るばかりです。