Writingsコラム
もとは食料!? 新潟県の錦鯉

立派な日本庭園に美しい錦鯉が泳ぐ光景は、お金持ちのイメージとして人々の心に刻みつけられています。国内で錦鯉養殖のトップを誇っているのは新潟県。錦鯉を手がける地域の歴史をたどってみましょう。
鯉は観賞用だけではなく、食用も存在します。こちらは茨城県の霞ヶ浦周辺や長野県佐久市の千曲川流域、福島県郡山市の阿武隈川流域で養殖が盛んです。鯉料理は江戸時代、料理の中で最高ランクとされており、将軍家の御前料理は鯉に限られていたとか。新潟県長岡市山古志村と小千谷市では、雪深い土地で交通も不便なため、食用目的で鯉を育てていました。また、夏の渇水時には鯉の養殖池から水を引くことができたため、稲作にも貢献していました。
事情が変わったのは、突然変異で色や模様のついた鯉が現れてからです。真鯉の色は鉄色かブルーが強めの浅黄色であるのが通常でしたが、19世紀後半、文化・文政あたりの江戸の世に、うっすらと赤が混じった「色鯉」が出始めます。そこから交配が始まり、緋鯉、浅黄、色無地鯉などの「変わりもの」が生まれ、より複雑な種が出てくるようになります。その後、明治時代にドイツからもたらされた品種が大きな貢献をするなど、着々と品種改良が進み、今では150種以上の品種が生まれています。
江戸から明治にかけて、鯉は大名や豪商・豪農の庭園の池を彩る特別な観賞魚でした。1914年に東京・上野公園で開催された東京大正博覧会に錦鯉(当時の名称は「変わり鯉」)が出品され、銀賞を受賞。これがきっかけで愛好家が増え出しました。当時の皇太子(後の昭和天皇)が大変気に入ったため、皇居に献納したことも鯉の評判を高めました。
錦鯉人気は上り調子であったものの、第二次世界大戦で錦鯉の養殖は危機を迎えます。戦況の悪化によって品評会は中止に。若者がいなくなり、人手不足に陥りました。鯉の餌となる蚕のサナギが養蚕業の不振で欠乏したことも大きく影響しました。こういった厳しい環境の中でも、貴重な種鯉を隠し、守り抜いた努力は、やがて実を結びます。戦後の日本経済を支える輸出品として、1947年から輸出されたことによって「泳ぐ宝石」と称賛され、世界に愛好家が広がりました。国内では1960年代の高度経済成長期で、自宅の家に庭を作って鯉を飼うことがステータスとなったこともあり、一層、需要が高まりました。
戦後、最も大きな打撃となったのが2004年に起きた新潟県中越大震災でした。最大震度7の巨大地震の震源地は、すぐそばの長岡市川口村。山岳地である山古志村は地滑りが多発し、ライフラインが途絶えて孤立。全住民が避難しなければならなくなりました。もちろん飼育していた生き物たちの命も多数失われ、錦鯉の被害は20万匹と言われています。全村避難は3年にも渡りました。
大震災から20年以上経ち、錦鯉の養殖も無事復興し、かつてのように養殖場や直営販売所などが復活しています。避難期間中も生産者が村に戻り、生き残った鯉に発電機で空気を送り続けるなどの努力を続けた成果です。ここでの復興へのプロセスは、今、同じような山間部被害が多かった能登半島などに伝えられているそうです。
鯉は高価なものというイメージがありますが、手頃なものでは数千円程度で手に入り、水槽で買うことも可能です。ただ、希少な鯉は2億円で取引されたこともありますから、かなり金額に幅があることは間違いないでしょう。ただ、ドラマなどで見かけるような大きな池で飼うようになると、濾過装置などの電気代や餌代など、それなりの金額がかかるようになることも付け加えておきます。


