Writingsコラム

新潟の春を彩るチューリップ

新潟は稲作の栽培面積、収穫量全国1位の米どころとして有名ですが、実はチューリップの切花の生産量も全国1位です。冬の寒さと、徐々に暖かくなるという気候がチューリップ栽培に最適だということで、隣り合う富山県と、切花と球根の生産シェアを分け合っています。切花の方で若干シェア率が高いのが新潟県だとか。

チューリップはトルコ原産で、16世紀ごろにヨーロッパに伝わり、オランダで栽培が盛んになりました。日本へ入ってきたのは江戸時代の末期、文久3(1863)年。幕府の遣欧使節がフランスから持ち帰ったと言われています。明治に入って西洋植物の栽培が盛んになり、チューリップの栽培も流行しました。当時は国産ではなく、球根を輸入していたので非常に高価なものでした。大正時代の球根価格は、現在ならば1球1,000〜3,000円ほど。今は200〜300円程度なので、かなりの高級品でした。こんな高価な球根であるというのに、栽培方法がしっかり確立していなかったため、冬暖かく乾燥している太平洋側や西日本では栽培に失敗することもあったようです。

このチューリップの球根栽培に目をつけたのが、中蒲原(なかかんばら)郡・小合村(現・新津市)の花卉(かき)農家、小田喜平太(おだきへいた)。近隣でささやかに行われていたチューリップ生産に大正7(1918)年に試験的に加わりました。

その小田に、もっと本腰を入れたほうがいいと説得した人物がいます。千葉県高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)で園芸学を学び、中蒲原郡役所の技手となった小山重(こやましげ)です。彼は新潟の気候がチューリップ栽培に適しているという感触を得ていました。園芸学校時代の恩師・林脩己(はやしのぶみ)の協力を得て、小田を説得し、栽培事業のため、翌年にはオランダから球根を大量に輸入をしました。大正9(1920)年には本格的栽培が始まったといいますから、なんともスピード感のある話です。小田の事業拡大をきっかけに他の農家も参入しはじめます。

ですが、すべての新潟の花卉栽培農家が進んでチューリップ栽培を始めたわけではありません。儲かるかどうかわからないと、栽培を迷っていた農家の心を変えたのは、大正10(1921)年に行った林脩己の講演だったと言われています。

実は林は千葉県の試験場でのチューリップ球根栽培プロジェクトに失敗していました。原因は千葉県の温暖すぎる気候にありました。一方、新潟は条件を兼ね備えています。さらに林は稲作よりも25倍収益を上げることができると農家を説得しました。こうして小合村の栽培農家は組合を作り、順調に栽培面積を伸ばし、昭和10(1935)年にはアメリカと中国に輸出するほどになりました。外貨を稼ぐ大きな柱となりましたが、残念なことに戦争の影響で中断します。けれども戦後昭和23(1948)年に外貨獲得のために再び脚光を浴びることになります。

後に球根輸出事業は日本の経済成長で利益が出にくくなり、新潟県は切花事業に舵を切り直しました。現在、球根の方は、チューリップの花畑を大面積で見せる春のイベントとして大いに活用されています。新潟をはじめ、隣県の富山で、多彩なチューリップフェアが開催されています。色鮮やかなチューリップを楽しみに、足を運んでみたいものです。

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