Writingsコラム

ポルトガル、今昔物語

世界史の重要トピックとして、大航海時代(15〜17世紀)は外せません。1415年ポルトガルの王子エンリケが、北アフリカの交易としセウタを占有したことを皮切りに、富の移動が加速度を増し、地球規模となって、性質が変容する時代が始まります。

セウタは地中海と大西洋の境ジブラルタル海峡のアフリカ側にある、紀元前7世紀から栄えていた交易都市です。8世紀からイスラム勢の支配下にありましたが、キリスト教を信仰するポルトガルが領有したということは画期的な出来事でした。そしてアフリカ最南端の希望峰に到達(1488年)したのはポルトガル人航海者バルトロメウ・ディアス。希望峰経由でインド航路を開拓(1498年)したのもポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマでした。

この時代、ポルトガルのライバルはスペインで、1492年にコロンブスがアメリカ大陸に到達したことから両国の競争が激化しました。そこでローマ教皇アレクサンデル6世が仲介し、1493年に勢力圏の分割を決めます。いわゆる教皇子午線と言われるものでした。ただ、教皇の線引きには少々無理があったため、翌年、当事者間で詳細が定義し直され、トルデシシリャス条約が締結されます。アメリカ大陸は現在のブラジルを除いた地域がスペイン、カリブ海と南アフリカ地域がポルトガル勢力圏となりました。ちなみに教皇アレクサンデル6世の本名はロドリーゴ・ボルジア。息子はチェーザレ・ボルジアで、権謀術数と毒殺で名を馳せています。

この条約の名残として、南米大陸ではブラジルではポルトガル語が使われ、他の地域ではスペイン語が使われているわけですが、17世紀初頭からのイギリスとオランダの台頭によって勢力図は変わります。日本も鉄砲をはじめとした西洋技術を吸収したいという意図から、ポルトガルと貿易していました。が、徳川幕府がキリスト教を使った侵略を警戒したため、信仰を押し出さないオランダに絞って西洋との貿易をしたという理由があります。

さて、ポルトガルが覇権を失ったのは、王室の後継者が途絶えたためです。もともとポルトガルは1143年にスペインから独立した国でした。スペインは後継者不在という機に乗じ、ポルトガルを併合(1580年)し、以降、60年ほどポルトガル王をスペイン王が兼ねることになりました。ポルトガルが主権を回復した後、大公の娘カタリーナを、スペインのライバル国であったイギリスのチャールズ2世に嫁がせます。彼女が東洋やブラジルから取り寄せたお茶(当時は緑茶)をイギリスに持ち込み、上流階級で大流行となります。カタリーナの持参金の一部として、インドのムンバイをイギリスに譲渡したので、ここを拠点に茶の輸入が可能となり、後の「イギリスといえば紅茶」の基礎を作ったといえます。植民地としてのブラジルは、1822年までサトウキビや金などでポルトガルに大きな富をもたらし続けました。

現在、ポルトガルはかつての豊かな文化遺産や美しい海岸線、物価の安さや治安の良さなどから、欧米からのリゾート客で賑わっています。中でもヴァカンス地として有名なアルガルヴェは、アメリカからの裕福な移住者が激増している模様。ニューヨークなどと比べて不動産価格は格段に安く、風光明媚で温暖。食事も西洋人の口に合うなど、好条件が揃っています。が、地元では、ポルトガル語を一向に解せず、交流を深めることをしない人々が大勢移住してくると、不動産価格が上がる一方だと、不満が溜まっているようです。大航海時代のポルトガル人が600年後の世界を知ったら、絶対に驚くことでしょう。

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