Writingsコラム

熊本城、想定外を乗り越えて

熊本を象徴する熊本城は、防衛能力に秀で、難攻不落の名城といわれています。その通り、城を傷つけた原因はすべて戦以外のことでした。

熊本城は、関ヶ原の戦いの翌年1601年、築城の名人といわれる加藤清正が手がけ、7年後に完成しました。清正は1611年に病死し、息子が後を継ぎましたが、豊臣秀吉とのつながりのせいか徳川幕府から疎まれ、1631年に庄内藩預かりという配流扱いに。次代城主は小倉藩主であった細川忠利となりました。以降、細川家が熊本城主を受け継いでいきます。

熊本城の特徴は、3つの天守閣に、敵を撃退するための槽が49、槽門18、城門29という壮大な防衛機能。勝海舟は「築制他城の比にあらず。外周最大なり。郭城高く、堅牢おもうべし」と、堅牢さに感嘆しています。

明治に切り替わってから10年ほど経った1877年、西郷隆盛が率いた内乱、西南戦争で50日にも及ぶ篭城戦が展開されます。ここで難攻不落の名を証明したものの、その戦が始まる直前、謎の放火事件があって、天守と本丸御殿一帯が焼失してしまいました。何かしらの謀略が働いたのかと疑う事件です。

それから12年後の1889年には、推定M6.3とされる熊本地震(金峰山地震)に見舞われ、石垣や壁、崖などが崩れました。さらに2016年4月14、16日にそれぞれM6.5とM7.3の地震に襲われ、熊本城の歴史で最大級の被害が生じました。築城時には、まったく予測し得なかった自然災害でした。

石垣や天守閣が崩れた状況は衝撃をもたらしましたが、現在、修復が進み、徐々に往年の姿を取り戻しつつあります。修復工事を担うのは大林組。石垣に関しては、崩落した石の位置を特定する画像処理技術を富士通と富士通アドバンストエンジニアリングが共同で開発し、作業の効率化に役立っています。

何度も苦難に遭いながらも熊本城は蘇ります。たとえ想定を超える事象が起きたとしても、乗り越えていくことができると教えてくれているのかもしれません。

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