Writingsコラム

江戸の菊栽培

秋の草花を代表するのが菊。この時期、神社仏閣や公園を訪れると、店頭では見たことのないような種類の立派な菊を展示している場面に遭遇します。最近では見かけることが少なくなりましたが、菊で人形を装飾した「菊人形」も秋を彩る風物詩です。菊を愛でることは、平安時代から貴族が宴などを催して楽しんでいましたが、庶民に浸透したのは江戸時代。どのような経緯で広がったのか、概略をご紹介しましょう。

戦乱の世が終わり、世の中が落ち着いた江戸時代。二代将軍・徳川秀忠が椿好きだったということもあり、江戸園芸文化は椿栽培で幕を開けます。将軍が好んだということから、諸大名や御用人が屋敷に庭を造らせ、腕のいい植木職人が江戸に集まってくるようになりました。ここから裕福な町人に庭づくりが広がるのに時間はかかりませんでした。さらに庭づくりだけではなく、軒先で楽しめる鉢物栽培など、園芸は庶民も楽しむ趣味として広がっていきました。

菊栽培のブームは、18世紀の初頭、京都の裕福な町人から始まり、寺院で品評会が行われるようになりました。この流行があっという間に江戸にも伝わり、享保3(1718)年には「江戸菊会」が開かれ、これを機に菊の品種改良が進んでいきます。一方、「菊細工」と呼ばれる、菊を使った人形、動物、風景などの展示も盛んに行われていきます。

「菊細工」発祥の地は江戸の巣鴨だと言われています。飾りとしてだけではなく、仏教の教えを示したり、「蒙古襲来」などの物語仕立てにしたり、「菊細工」は庶民の人気を博しました。この伝統は、明治以降もしっかり受け継がれていきます。「菊人形」と呼ばれるようになったのは明治以降のことのようです。

参勤交代によって、園芸ブームは地方にも広がっていきました。菊はその昔、中国で徳の高い君子に愛された植物ゆえに、隠居した武士の趣味として、品格があると好まれていたようです。各地で品種改良されたものを総じて「古典菊」と言います。さらに日本の菊が世界に広がっていったきっかけは、1860〜61年にロバート・フォーチュンという英国人が十数種類の菊や百合などを本国に送ったことから。そこで改良された種がヨーロッパに広がり、たくさんの品種が逆輸入されています。

現在、江戸を中心に発達した「江戸菊」とされる菊は、文化文政期に「中菊」「芸菊」と呼ばれていたものです。開花から花がしおれるまでの10〜15日間、徐々に花の様子が変化していくのだというから驚きです。静かな花に動きを求めた江戸の粋。名前も「酔美人」「雲雀の床」「薄化粧」など想像力をかき立てるものがたくさんあります。この秋、菊を眺めて、昔の日本に想いを馳せてみませんか?

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