Writingsコラム

長崎、貿易と砂糖

長崎というと、カステラなど西洋文化を取り入れた菓子が有名です。事実、ポルトガル船が入港した1571年から、キリスト教禁止令でポルトガルと交易が禁止となった1639年までの70年年弱の間、長崎はポルトガルとの交易の中心地で、そこから西洋の食文化が伝わってきました。

大航海時代、世界の覇権はポルトガルとスペインで争われていました。その流れで1500年、ポルトガルはブラジルを獲得。砂糖プランテーションを大規模に展開させました。長崎にポルトガル船が初めて寄港した頃、ブラジルの砂糖生産量は世界最大規模となっていました。この影響で、甘味といえば麹や蜂蜜、干し柿くらいであった日本にも、精製された砂糖が大量に上陸することになりました。

当初、砂糖は薬として珍重されていました。金平糖はポルトガル宣教師が喉の薬として用いたようです。カステラは、老舗として有名な福砂屋の創業が1624年。ポルトガル人から直接製法を伝授されたと言われています。その原型はコッペパンのようなものだったとか。ここを起点に多くの和菓子職人の試行錯誤を繰り返した末、今のカステラの形になったそうです。

西洋から伝わった砂糖菓子の技術は、中国の調理技術と融合し、果物を漬けた蜜漬が生まれました。同じく中国から伝わった柑橘類ザボン(文旦)を、砂糖漬けにしたザボン漬けは長崎を代表する銘菓の一つ。砂糖に餅粉を加えて恵比寿などの縁起物の形を作った「ぬくめ細工」も長崎独自のものです。米どころの諫早では白米と水飴を使った「おこし」が発案されました。甘く煮つけたシイタケやゴボウなどを混ぜ込み、錦糸卵を乗せた大村寿司など、砂糖を使った菓子や料理が長崎から広がっていきました。

江戸幕府のいわゆる「鎖国政策」の最中は、長崎・出島で、オランダと中国のみの貿易に限られましたが、どちらも大量の砂糖を日本に運び込みました。この際、荷上げ時にこぼれた砂糖は「こぼれもの」とされ、人足が持ち帰ることを許されました。また、役人への礼や、遊女への贈り物としても砂糖が出回ることになります。これらの非正規品によって砂糖の販路が拡大し、より広い層へと広まることになります。

長崎で荷上げされた砂糖は、長崎街道を通り、大阪の問屋へ運ばれ、そこから全国へと渡っていきました。長崎から北九州・小倉を結ぶ道は、現在「シュガーロード」と命名され、220キロの街道沿いにある地域独自の甘味を楽しめる観光事業へと発展しています。400年の伝統がある砂糖文化は、文化庁から日本遺産としても認定されていることですし、これからも進化し続けていくことでしょう。

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