Writingsコラム

石川県で起きた民主主義の源流

江戸時代、石川県を統治していた加賀藩は石高百万石と言われ、漆器の輪島塗や金箔細工などに代表される伝統工芸、金沢の兼六園や趣ある街並みなど、豊かで雅なイメージがあります。ですが、歴史の教科書で「加賀」と最初に遭遇するのは「加賀一向一揆」ではないでしょうか。

加賀一向一揆は、1474〜1580年の約100年間に、加賀国の一向宗の信者が主体となって国を運営し、大名に統治されない「百姓の持ちたる国」を実現しました。

一向宗とは、浄土真宗のこと。法然(ほうねん)が開いた浄土宗は「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで救われると説きました。弟子の親鸞(しんらん)は師が「阿弥陀如来、一神に信心を向けなさい」という言葉を軸に、阿弥陀如来に特化した信仰、浄土真宗として広めました。さらに親鸞の弟子・蓮如(れんにょ)が教えを広げます。この浄土真宗は、「一神に信心を向ける」ことから一向宗と言われていました。布教のため、蓮如は1471〜75年の北陸に滞在し、この地域に広がっていた浄土宗の諸派を吸収していきます。その際、守護大名の富樫政親(とがしまさちか)の力を借りて信徒をまとめます。しかしその後、政親を滅ぼしたりと、かなりの謀略・剛腕ぶりを発揮します。

蓮如が亡くなった後、蓮如の子供たちが活動を引き継ぎます。蓮如から三代先の宗主、顕如(けんにょ)の代に織田信長が台頭。天下統一を目指す織田信長は、大名同様、時にはそれ以上の勢力を持つ二つの宗教組織が目障りだと思っていました。比叡山延暦寺と一向宗の総本山である石山本願寺です。織田信長は1571年比叡山延暦寺を焼き討ちしていますが、一向宗には鎮圧に手を焼いています。一向宗は蓮如が布教した北陸と伊勢に寺が多く、僧たちのネットワークはかなり強固で情報収集力に優れていました。僧の仲介で大名や商人らと手を組み、土地を守ろうとする農民たちが兵となって戦います。これが一向一揆と呼ばれ、大軍に対してゲリラ戦や強固な石垣を持つ城砦を拠点にした戦を展開。信長だけではなく、家康も苦戦し、敗北を喫することになったのです。

しかし1580年、石山本願寺が11回にわたる戦闘の末に降伏。加賀の一向宗はその後も戦い続けましたが、同じ年に本拠地の尾山御坊(おやまごぼう※)が陥落。これで実質的に加賀一向一揆は終焉を迎えますが、残った門徒は抵抗を続けます。2年後の1582年3月1日、ついに最後の拠点となった白山の鳥越(とりごえ)城が落城。そこで生き残り、捕えられた300人ははりつけにされたといいます。皮肉なことに織田信長は、3か月先の6月2日に起きた本能寺の変で殺されますが、豊臣秀吉が天下統一を引き継ぎ、1588年の大規模な刀狩りで農民の武装解除がなされます。

現在、鳥越城跡(白山市三坂町)は史跡として整備され、その歴史は鳥越一向一揆歴史館で知ることができます。その後、徳川幕府が敷いた身分制ゆえに、政治と関わることを許されなかった農民のことを考えると、100年近くも農民たちが自分の国を運営できたことは、奇跡のような出来事だったのかもしれません。一向宗という宗教を軸にしてはいますが、加賀一向一揆の歴史は、今、改めて民主主義とは何かを考えさせられます。

※別名・金沢御堂、尾山城、金城。のちの金沢城で、現在は金沢城址公園となっています。

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