Writingsコラム

天下の台所と言われた大阪

その昔、大阪は「天下の台所」と呼ばれていました。米をはじめとした幅広い品物の売買の中心地だったためです。大阪が経済活動の中心となった経緯を探ってみましょう。

まずは、大阪か大坂かの問題を。江戸時代中期ごろまで、大阪は「大坂」と表記されていました。江戸時代の後半から「阪」の字が登場し、併用されていたとか。明治に変わる直前「大阪府」が設立され、そこで公式に「阪」が採用されたという経緯があります。

戦国時代は荒廃していた大阪でしたが、1496年、大和川と淀川に挟まれた上町(うえまち)台地に目をつけた人物がいます。浄土宗の僧・蓮如(れんにょ)は、ここに大坂御坊(ごぼう)を建立します。のちにこの寺は石山本願寺となり、その防御力の高さで、天下統一を目指していた織田信長を長く苦しめることになりました。

信長亡き後、天下人となった豊臣秀吉は、京都に建てた伏見城を1596年の慶長伏見大地震によって失います。翌年、秀吉は亡くなりますが、豊臣家の新たな拠点として、1583年から築城され、周辺地域の開発が進んでいた大坂城が選ばれます。上町台地を中心に、四天王寺周辺から住吉、堺までを含む巨大都市プランでした。大坂城は難攻不落と言われていましたが、徳川の二回の攻略によって落城。焼け野原となった城下町や周辺地域の都市開発は、徳川家によって引き継がれていきます。

1619年、大坂は徳川家直轄の天領となります。東西町奉行が設置され、北組、南組、天満組という大坂三郷と呼ばれる町人居住地域ができ、町人による自治の体制が整えられました。この場合の町人は、屋敷を所有している人のことで、借家人は含まれていません。1634年、徳川家光が訪れた際、大坂三郷の地子銭(ちしせん・農民の年貢に当たるもの)が免除されました。免除分は消防や橋の維持など公共サービス費に使われていたので、実は幕府の費用負担減を狙った政策でした。

この地子銭免除によって、各地から商人が集まってきます。1630年頃までには東・西・天満堀や道頓堀などの水運インフラが整い、利便性が高まります。もともと大坂は淀川を通じて京都、東国へとつながり、瀬戸内海沿いの西国とも行き来しやすい交通の要所でした。江戸との船便や日本海側の西回り便が整備された1670年代には「天下の台所」の基礎が築かれました。

集まる物資のうち、重要なのは諸国から集まってくる年貢米です。100以上の藩が堀川沿いに蔵屋敷を構え、販売量は年間1.000万石以上だったとか。諸藩が販売する米切手を売り買いする米市が設置され、1730年には堂島米会所が誕生。米の先物取引を行う場が整えられました。

米の先物取引は淀屋辰五郎(よどやたつごろう)が考案したシステムと言われますが、米切手の存在そのものが先物取引の先駆けでした。荷が到着していない米、収穫前の米を、切手という形にして売り買いしていたのです。切手の売買を信用できる会員に限り、取引や決済のルールを定めたのが堂島米会所。世界的にも先駆けと言える存在で、ここで決まった米価は全国各地の相場基準となりました。

米が集まり、全国に出荷される拠点であった大阪が「天下の台所」と称されたのは当然の成り行きです。そして豊かな街には文化が育つもの。町人たちは茶の湯や長唄を習い、文楽や落語などの娯楽を堪能しました。美食を楽しむ食文化も育まれていき、大阪は「食い倒れの街」とも呼ばれたのでした。

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