Writingsコラム

お江戸・東京の水道網

「すいどの水で産湯を使い、金の鯱鉾(しゃちほこ)チラチラ眺め、芝で生まれて神田で育つ」のが江戸っ子だと言われていました。すいどは水道、金の鯱鉾は江戸城の天守に輝く装飾、芝や神田のあたりは庶民が住む地域。下町に住む庶民がケンカで啖呵(たんか)を切る時には「神田の水で」か「玉川の水で」産湯を使い……と言います。なぜこの表現になったのか、江戸の水事情を探っていきましょう。

神田も玉川も川の名前ではなく、神田上水と玉川上水を示します。川や井戸の水ではなく、水道水を使っていることが江戸っ子の自慢なのです。江戸の水道は現代のように蛇口から出てくるものではなく、井戸に水を溜めて汲み上げる方式でしたから、見た目は井戸水のように見えていました。が、実は地下に供給網が存在していました。

徳川家康が江戸に移ってきた頃、江戸の町人たちは質の良くない井戸水と、山手方面からやってくる水売りから水を買っていました。そこへ諸藩の武家と商人が集まってくれば、深刻な水不足に陥るのは必然です。家康は大久保藤五郎に命じて1590年に小石川上水を作らせました。これが発展して玉川上水となったのです。

さらに三代将軍・家光が、諸侯に一年ごとに江戸に滞在する参勤交代を命じため、江戸の人口は膨張を続けます。1653年、玉川上水を掘る許可が出て、町人の庄右衛門と清右衛門兄弟が工事を請け負うことになります。現在の羽村市から、多摩川の水を江戸に引き入れるという大工事です。4月から工事に入り、8ヶ月後には四谷大木戸まで水が引かれ、翌年6月には虎ノ門まで到達。全長約43kmという長さでありながら驚異的なペースで完成しました。この功績によって庄右衛門と清右衛門兄弟は玉川姓を賜ります。これで江戸城、四谷、麹町、赤坂、芝、京橋に至る地域の水が確保されました。

引かれた水は、神田上水は目白の堤、玉川上水は虎ノ門の地下に造られた石樋にためられ、地中に埋められた導水管という木製の水道管を通って給水されました。その際、高所の水を一度、低所に集め、再び高所に上げるという工程が必要です。この工程は水道管の機密性の高さがなければ実現できません。寸分違わず木を加工できる熟練職人の高度な技術が使われていたそうです。

玉川上水は、海へ向かって傾斜していく武蔵野台地の地形を利用して流されていたため、途中で分水することも可能でした。青山、三田、千川をはじめ、水量の少ない神田上水にも分水されていたそうです。水の乏しい武蔵野台地にも分水され、農業用水としても使われていました。

水質の管理は厳格で、船の行き来は許されていませんでした。しかし明治の時代になると、幕府の方針が引き継がれず、玉川上水の水質は悪化の一途をたどります。そして明治政府は巨額の予算をかけて近代式の水道設備を作ることになったのです。

400年以上前に作られた江戸の上水設備が、200年以上も現役で活躍したのは、こまめなメンテナンスと厳格な水管理のおかげです。江戸の水道の歴史は、インフラ設備の維持管理について、多くのことを今の私たちに教えてくれます。

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